「水餃」という文字を見て、あなたはいったいどんな食べ物を思い浮かべるだろうか。
我ながら、愚問だ。
「餃」という漢字は、その一文字で《ぎょうざ》をイメージさせるぐらい、餃子度数(?)が高い文字。
だから、「水餃」と言えば、イコール、水餃子に決まっている。
きっと、あなたはそう思う筈だ。もちろん僕もそう思う。
だから。
「水餃」看板の店が立ち並ぶ、こんな通りに来たら、「水餃子の店」が並んでいるのだと思うだろう。
実際、ホーチミンのガイドブックなどで、この界隈は、《水餃子ストリート》と紹介されていることが多い。
しかし、正確に言うと、それは誤りなのだ。
僕は、事前に、このストリートの「水餃」は、水餃子に非ずという情報を得ていたけれど、やはり自分の目で、舌で確かめてみる必要があった。
それでなくては、餃子ランナーとしての名(どういう名だよw)がすたる。
とにかく、右も左も「水餃店」ばかりなので目移りしたが、僕は、その中でも一番有名で、どんな紹介記事にも書かれている、この店を選んだ。
「195 天天水餃」だ。
この界隈にある店は、《水餃○○(番地名)》というシンプルな店名が多いのだけれど、この店は、《天天水餃》という、別の固有名も持っている。
老舗の風格と言ったところだろうか。
その店舗は、支店を含めて3店舗もあり、どれも、地元の人と思われる人たちで賑わっていた。
こういう店を選べば、まず間違いはない、筈。
ということで、入店。
店内は、ベトナム語表記のみで、英語表記や写真メニューなどはない。
しかし、客の大半は同じものを注文していたし、僕も、その名前だけは記憶していたので、壁のメニューを指さして、 それを注文した。
その名は、SUI CAO MI(水餃麺)だ。
料理が出てくるまでの間、僕はしばし、店内やテーブル周りなどの情景を眺めて時間を潰していた。
テーブル上には、さまざまなものが載っていたが、どれがどれやら、僕にはさっぱりわからなかった。
ただ、周りの人たちが、それらのいくつかを使って、何やら《タレ》的なものを作っていたので、見よう見まねで僕も作ってみた。
こんな感じ。
周りの人の使い方を見ていると、これを麺の中に入れたりして《味変》を楽しむようだ。
この日、僕は結局これを使わないまま食べ終わってしまったので、味変の感想は書けないのだけれど(←おぃ!
待つこと20分ぐらいだろうか。
とにかく混んでいたせいか、予想外に時間がかかったけれど、しかし、ついに…。
水餃麺がやってきた!
丼のサイズは、iPhone SEと同じぐらいなので、それほど大きなものではない。
緑の野菜が沢山載っていて、ビジュアル的には美しいが、肝心の《餃》が目立たない。
一瞬、ボリューム的にどうなんだろう…?と思ったのだけれど、それは大きな誤解だった。
麺の下には、食べ応えのある《餃》が、たっぷり5個も埋まっていたからだ。
ただ、その《餃》は、やっぱり、どう見ても餃子ではなかった。
これを水餃子と呼ぶには、その皮が滑らかすぎる。
水餃子であれば、皮がこんなにビラビラと伸びたりしない。
そう。日本的感覚で言えば、これはどう見ても、雲呑、と呼ぶべきもの。
だから、水餃麺ではなく雲呑麺と考えた方が、イメージがぴったりなのだ。
ただ、実際に食べてみると、いわゆる日本の雲呑とも、ちょっと違うような気もした。
囓ってみると、ぷりっぷりの海老と、ぎっしりの肉。
日本の雲呑は、通常、具はそれほど多くないので、具の部分だけ見ると、「海老水餃子」的だとも言える。
まぁ、餃子も雲呑も、中国では元々同じ食べ物だったようなので、これを《水餃》と呼ぶのも、あながち、間違いではないのかもしれない。
僕は、十分に餃子的な満足感を得たし、あぁ、この街に、この店に来ることが出来て良かったなぁと思った。
水餃子ならぬ水餃に、僕は大いに満足したが、麺やスープも実に美味しかった。
麺は縮れた細麺で、コシがあって食べ応えがあったし、たっぷりの野菜も最高。
これで50000ドン(約250円)なのだから、人気があるのも頷けた。
店を出ると、外はすっかり暗くなっていたが、どの水餃店の灯りもまぶしく煌めいていた。
商売的には、むしろ、これからが本番というムードで、通りの賑わいも増すばかり。
折角ここまで遠征してきたのだから、僕は、できれば、もう1軒ぐらいハシゴをしたかった。
しかし、この日の深夜には帰国しなければならず、残念ながらタイムアウト。
皆の食べているものを眺めていたら、揚げ餃子(揚げ雲呑)的なものもあった。
もしもまた、ここを訪れることができたら、今度はそれを試してみたいと思う。