僕は、餃子をこよなく愛している。
しかし、だからと言って、「餃子」と名がつけば、何でも好きなわけじゃない。
餃子という料理は、「皮と餡」の絶妙なハーモニーがあってこそ成り立つというのが、僕の持論で、そのどちらが欠けてもあり得ない。
だから、巷で良くある「餃子味」などいう食品などを見ると、大いに不満が募る。
それは、《いわゆる餃子の餡っぽいもの》を無理矢理《餃子味》として名乗っているだけで、皮の存在はどこに行ったんだよ!と思うからだ。
ゆえに僕は、こういった食品には全く心が動かない。
そして。
餃子の皮は、あくまで、小麦粉でならなければならない。これは、餃子を名乗る以上、マスト。
それは、単に僕の持論というわけじゃなく…。
ギョーザ【餃子】
(中国語) 中国料理。小麦粉をこねて薄く伸ばした皮に、挽肉・野菜を包んで焼き、または茹で、あるいは蒸したもの。
広辞苑(第六版)にも、ちゃんと書かれている。
試しに、アレクサ(Amazon Echo Spot)に尋ねてみたら、このように答えてくれた。
これは、餃界の常識なのだ。
だから僕は、ひとつ、どうしても許せないことがある。
前述の餃子味食品については、まぁ、単なるイメージ表現だと考えれば(僕は食べないが)許容している。
しかし、手羽先餃子なるモノは別。
小麦粉の存在を無視しているにも関わらず、あたかも「餃子の一種」であるかのように名乗り、しかも、一定の市民権を得ていることには、腹立ちを覚えているほどだ。
だから僕は、知り合いに「手羽先餃子が大好きなんですよねー」などと話しかけられたら、たぶん、その後の話が続かない。
喧嘩になる可能性もありそうなので、きっと、僕の方から離れていくだろう。
と。そんなニセ餃子のことはどうでもいい。
僕は、「本当の」餃子が好きな人と、餃子の話題で大いに盛り上がりたいと考えている。
焼餃子、水餃子、揚餃子。
餃子にはさまざまな調理法があるし、もっちり皮、薄皮、たっぷり肉汁、ざっくり野菜などなど、皮や具のバリエーションも豊富で、話題は尽きない。
そんな話を、餃子とビールを味わいながら語り合う。いやぁ、想像しただけで最高だ。
ここで僕は、ふと思いついて、アレクサへの質問を重ねてみることにした。
アレクサは、好きなモノは何かと聞くと、さまざまな答えをしてくれるからだ。
例えば「好きな食べ物」は炊き込みご飯で、「好きな飲み物」は、泡の立つ飲み物とのことだった。
ということで、アレクサに、「好きな餃子は何?」と尋ねてみたところ…。
え?えっ?
僕は、何かの間違いじゃないか、と思った。「小麦粉を原料とした皮」だと伝えた、己の説明と矛盾する。
echo dotなら、聞き間違いだろうと思うほどの衝撃。
しかし、Spotの画面には、明確に《手羽先餃子》なる文字が書かれていた。
試しにもう一度聞いてみる。
「何と言っても」って、何だよ!
それは餃子じゃないだろ、アレクサ!頼む。わかってくれ。祈りながら、もう一度聞く。
すると…。
手羽先餃子は絶対外せません。
ご丁寧に青字で強調し、絶対外せないと言い切ってきた。これは、僕に対する宣戦布告だ。
これまで、アレクサは僕の大事なパートナーだと思ってきたが、少し距離を置く必要があるかもしれない。