僕は、餃子をこよなく愛している。
だから、友人などから、餃子的なものなら、何でも好きなんじゃないかと思われることがあるのだけれど、それは誤解だ。
むしろ、逆。餃子が好きだからこそ、餃子の名を騙る《紛い物》には反発を覚える。
以前のエントリーで憤慨したけれど、例えば、手羽餃子なるものが、居酒屋などで、一定の市民権を得ていることには、どうにもこうにも違和感と反発があるのだ。
数年前。
「ご飯にかけるギョーザ」なるものが発売されたことを思い出す。
ご飯にかけるギョーザスタンダード 110g
これだ。
僕は試しに買ってはみたものの、やっぱりどうにも納得できなかった。
キワモノとしてすぐに消えてしまうかと思ったら、今でも普通に売っていて、なんと、姉妹品や類似品まで登場している。
となると、こういった商品が出てくるのも、必然的な流れだったのかもしれない。
永谷園「超ふりかけ」餃子味。
「餃子をタレに絡めた味わいを再現!」…って、いったい何を言っているんだか、個人的には意味不明。
あくまでこれはふりかけなのであるから、ふりかけの「〇〇味」に、いちいちケチをつけるなよ、と言われそうだけれど、やっぱり僕には納得できない。
どうして納得できないのだろうと、じっくり考えてみた結果、僕はその理由に行きついた。餃子味、を作り出す成分だ。
Webサイトの案内によれば、その具材は、餃子味フレーク、ごま、キャベツ、唐辛子」となっていた。
餃子味フレーク、という具材名が、何の説明にもなっていないので、詳細は不明なのだけれど、既存の「超ふりかけ」シリーズをベースに推測すると、大豆たんぱくに味付けをしたものが主成分だと思われる。
その前提で、餃子の定義と照らし合わせてみると、違和感がはっきりしてきた。
ギョーザ【餃子】
(中国語) 中国料理。小麦粉をこねて薄く伸ばした皮に、挽肉・野菜を包んで焼き、または茹で、あるいは蒸したもの。《広辞苑より》
広義の意味で言えば、具は海鮮だって餃子だし、揚餃子だって餃子だと思う。
個人的に絶対に譲れないのは、「小麦粉をこねて薄く伸ばした皮」の部分。これなくしては、絶対に餃子と言えないのだ。
餃子は、皮と具のハーモニーが織りなす一体感を持って、あくまで「餃子」となりうるのだ。
小麦粉が作り出す風味と食感、絶妙なカリカリ感やもちもち感を醸し出す皮に包まれるからこそ、餃子の「具」のおいしさは際立つ。
小麦粉が作り出す皮と食感の存在を抜きにして、餃子味を名乗るな!
コロッケは、パン粉の皮がなければコロッケと成り立たない。パン粉の味と食感がなければコロッケじゃない。
天ぷらは、小麦粉ベースの衣がなければ天ぷらと成り立たない。衣の味と食感がなければ天ぷらじゃない。
それと同様に、餃子も、小麦粉の皮がなければ、餃子と成り立たない。皮の食感を味わえなければ餃子じゃない。
…筈。
なのに、コロッケ味や天ぷら味のものはなくて、なぜ、餃子だけ、気安く「餃子味」などというものが出てくるのだ。
このふりかけに限らず、これまでに、さまざまなお菓子類などで、餃子味のものが発売されている。餃子味でもなんでもないのに。
どうにもこうにも、僕はこれが納得できない。