餃子ランナーは電子機器の夢を見るか?

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「iPhoneが生まれた日」だからこそ、掌の中のiPhoneを愛おしむ。

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今を遡ること19年前。

2007年1月9日。

スティーブ・ジョブズは、サンフランシスコでの発表会において、初めてiPhoneを披露した。

そう。

今日は「iPhoneの誕生日」なのである。

この日を境に、携帯端末の歴史は大きく変わった。

ジョブズが、iPhoneを片手でつまむようにして掲げた瞬間の写真は、今も象徴的な一枚として語り継がれている。

電話、音楽プレーヤー、インターネット端末――

それらをひとつに統合した、全く新しいデバイスとして、iPhoneは紹介された。

ジョブズは、いみじくもこう語った。

「今日、Appleは電話を再発明する」

今から見れば当たり前に思えるかも知れないけれど、当時としては画期的で、まさに《再発明》だったのだ。

その後、6月に正式発売された初代iPhoneの画面サイズは3.5インチだった。

今の感覚で言えば、驚くほど小さい。

しかし当時はそれで十分だったし、むしろ「掌にすっぽり収まる」という感覚こそが、iPhoneの大きな魅力だったように思う。

掌の中に収まるサイズで、電話ができて、音楽が聴けて、ウェブも、メールも、写真も、地図も扱える。

「掌の中で、何でもできる」

その体験こそが、iPhoneというプロダクトの核心だったのではないか。

しかし、それから十数年。

iPhoneは進化に進化を重ね、その性能は飛躍的に向上したが、サイズは年々大きくなっていった。

今や、片手で扱うには少し無理があるサイズが当たり前になり、操作の多くは両手前提になっている。

もちろん、大画面には大画面のメリットがある。

得られる情報量は莫大となったし、写真や動画の迫力も増すばかり。

それは理解しているつもりだ。

けれど、その過程で失ってしまったものもあるのではないか。

僕はそんな気がしてならない。

僕は、iPhone 4からのユーザーだが、以降iPhone 5→iPhone 5S→iPhone SEと、乗り換えつつも変わらないコンパクトさに惚れ込んでいた。

その後僕は、2代目iPhone SEに移行したが、僕的にはそのサイズが限界だった。

iPhone miniシリーズが発表された時は歓喜したが、マスク装着時は認証しないという(当初の)Face ID仕様に使いにくさを感じ、乗り換えが遅れた。

やがてFace IDがマスク装着時も対応するようになり、僕はiPhone miniシリーズへの機種変更を決意する。

しかし、なんとなくもたもたしていたら、miniシリーズはたった2代で終了してしまった。

iPhone 13 miniを最後に、コンパクトなiPhoneは姿を消し、それ以降は、さらに大きく重たくなるばかり。*1

なんとも無念だ。

僕は、一昨年からようやくiPhone 12 miniへの回帰を実現し、その絶妙なサイズ感に痺れまくっている。

性能的には、何世代前のものになるため、最新のiPhoneに比べると大きく見劣りする。

だから、単体での利用は厳しい点もある。

しかし僕の場合は全く問題ない。

iPhone 12 miniでできないことは、Xiaomi 15 Ultraが補完してくれるからだ。

この凸凹コンビが、どうにもこうにも愛おしくてたまらない。

本格的にスマホの性能が必要な時や、美しい写真が必要な時は、Xiaomi 15 Ultraが活躍してくれるが、日常は全てiPhone 12 miniが賄ってくれる。

片手で持って、片手だけで操作できる。ポケットに入れても嵩張らない。

日常の「道具」として、身体に自然に馴染む。

このサイズ感だけは、何ものにも代えがたい宝物なのだ。

iPhoneが生まれた日だからこそ、あらためて思う。

進化とは、何かを得ることでもあり、同時に、何かを手放すことでもあるのだと。

僕にとっては、「掌の中で完結するiPhone」こそが、最高のiPhoneだと、信じてやまない。

*1:今回、iPhone Airが出たけれど、単に薄いだけでコンパクトではなく、片手では扱えない。


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